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東京高等裁判所 昭和40年(ネ)2512号 判決

控訴人 太田茂男

右訴訟代理人弁護士 牧野内武人

高橋信良

古波倉正偉

安藤寿朗

平田亮

金城睦

佐々木恭三

被控訴人 社団法人全国社会保険協会連合会

右代表者理事 黒川武雄

右訴訟代理人弁護士 和田艮一

金山忠弘

主文

原判決を左のとおり変更する。

被控訴人が昭和三九年八月二一日控訴人に対してなした解雇の意思表示は本案判決確定に至るまでその効力を停止する。

控訴人のその余の申請を却下する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人が昭和三九年八月二一日控訴人に対してなした解雇の意思表示は本案判決確定に至るまでその効力を停止する。被控訴人は控訴人に対し昭和三九年八月二二日以降本案判決確定に至るまで一ヶ月について金七三一〇八円の割合による金員を毎月二五日仮りに支払え。控訴費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」旨の判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張及び証拠の関係は、次に記載するほかは、原判決事実摘示と同じであるから、これを引用する。

一、控訴代理人は、従前の主張に付加し、

(一)  本件解雇が不当労働行為であることは、控訴人が第一番で主張した事実のほか、その前後に被控訴人によって行われた次のような事実に徴しても明白である。すなわち、

(1)  被控訴人は、病院により、昭和三九年夏期一時金について、組合に対しては最終的には〇・六ヶ月の回答をしたに止まるに拘らず、第二組合に対しては「就業規則遵守、院内服務規律の確立、病院の再建協力」等の条件を認めさせ、一、〇ヶ月の回答並びにその支給をし、同年七月期以降の定期昇給について、定期昇給中止を言明しつつ、第二組合に対しては、前同様の条件の承認を理由に右七月期以降同年一〇月期、同四〇年一月期及び四月期の各昇給期の定期昇給を夫々実施する旨協定したに拘らず、組合に対しては昇給を一年間遅らせ、同三九年末一時金について、組合に対しては最終的に一、〇ヶ月の回答をしたに止るに拘らず、第二組合に対しては、夏期一時金支給のときの条件に付加して、「向う六ヶ月間争議行為を行わない」という条件をつけて二、〇ヶ月の回答をしてその支給を行い、昭和四〇年の給与改定について、第二組合との間で「就業規則の遵守、服務規律の確立、病院再建協力、暫定給与調整額の支給を受けない」との条件のもとに、同年五月一日付でベースアップを実施しながら、組合に対しては実施せず、同四〇年夏期一時金について、組合に対しては〇、四ヶ月の回答であり、第二組合に対しては三九年冬期一時金の際の条件と同一条件のもとに一、二ヶ月を回答してその支給を行った。

(2)  被控訴人は、病院により、昭和三九年一〇月一九日頃医事課事務室の組合事務所側の窓ガラス(スリガラス)を透しガラスに取替えたほか、その頃、従来組合事務所の方を向いていなかった同課長の机を組合事務所の方へ向きを替えて、組合事務所への出入が完全に監視できるようにし、昭和四〇年三月一二日頃、従来から組合事務所に設置して組合で使用して来た電話につき、突如、院内通話に使用させないとの通告とその措置をとり、また、同年二、三月頃、主任看護婦に対し、医事課長が「組合は病院をぶっつぶそうとしているんだよ、悪いことはいわない。この際すっぽり組合をやめた方がよい」と、組合員の保清婦三名に対し事務次長が「組合を脱ければ昇給させてやる」と、食器消毒の組合員及び栄養士に対し給食課長心得が新旧賃金額を記載した書き付を示して「組合を脱ければ、これだけ上るんだ」と云って、それぞれ個別的に組合員に対し組合脱退を勧告し、更に、同年三月一九日頃従来の慣行を破って、組合費以外のカンパ、斗争資金等の臨時組合費の控除事務を一方的に中止する旨通告して来てこれを実施し、そのほか、昭和三九年一二月一五日に行われた組合の時限ストラキに際し、組合が横断幕を立てようとしたのに対し、病院側職制等が横断幕用の竿を折って妨害し、昭和四〇年四月二三日の健保労連の統一要求ストライキに対し、病院側は実力をもって看護婦、保清婦等女性組合員の中に乱入し、病院玄関前から玄関脇に組合員を排除し、組合員に対し写真を写して監視、威嚇し、同年六月一日のストライキに際しても、玄関に集った組合員等に対し、病院はマイクで威迫的大声を挙げて妨害し、盛にカメラを向けて撮影してはこれを監視、威嚇した。

(3)  以上(1)(2)の事実は、被控訴人が、組合を嫌悪し、これに経済的差別による不当な圧迫を加えて、組合の動揺と弱体化を企て、かつ組合活動に制限、妨害を加え、組合の分裂をはかって支配介入をなしたものであって、不当労働行為である。

組合は、被控訴人が昭和三九年六月に山口病院長代理、渡辺事務長代理、大川事務次長を病院に派遣して開始した一連の、そして一層狂暴な右記載及び第一審で主張のような弾圧に対して、昭和四〇年六月千葉県地方労働委員会に不当労働行為救済の申立を行い(千労委昭和四〇年(不)第二号)、その結果、同四一年五月三一日救済命令が出され、それによれば、被控訴人及び病院が、前記及び第一審で主張の昭和三九年夏期一時金、同年年末一時金、同四〇年夏期一時金、昭和三九年七月期、一〇月期、昭和四〇年一月期及び四月期の各定期昇給、昭和四〇年五月の給与改定、組合事務所廊下入口閉鎖、医事課事務室の窓ガラスの取り替え、組合事務所電話の院内通話取継の中止、通常組合費以外の月賦金等の控除事務中止、組合脱退勧告、保清婦の配置転換、組合ニユースの配付及びストラキに対する妨害等についてした行為が不当労働行為であると認定された。従って、被控訴人及び病院が昭和三七年一二月以来行って来たことは、殆どそのすべてが、不当労働行為と認定されたわけであって、本件解雇処分も、労働組合に対する系統的な弾圧措置を背景にして、不当労働行為の意図のもとに行われたものであること明らかである。

(二)  本件解雇の根拠規定である就業規則第三六条第四号が昭和三四年七月一一日成立した労働協約に内容牴触するもので無効であることの理由は、次のとおりである。

(1)  病院、組合間に昭和三四年七月一一日成立した労働協約の有効期間は同年四月一日から同三五年三月三一日までの一年間であったが、その後一部改訂を行いつつ、現在まで一年毎に有効に更新されて来たものである。尤も、その間、昭和三七年三月三一日迄を期限とする協約の当時、右期限前の同年二月二八日頃に、病院側が次期労働協約の改訂に関する申入れ通知を行って来たことがあるが、病院、組合双方とも申し入れについて特別に願慮することもなく協議しなかったものである。同協約第一四一条第一項は「この協約の有効期間満了の日前一ヶ月までに荘或は組合の何れか一方から次期協約について改訂の申し入れがあったときは、双方は団体交渉の手続によって改訂の交渉を行う」と規定されているが、協約第一四〇条第二項は「前項によりこの協約の一部若しくは全部を改訂しようとする場合には書面を以て改訂事項及び理由を相手方に通告しなければならない」と義務づけ規定を定めているに拘らず、病院は前記改訂申入れの際及びその後においても「改訂事項及び理由」について書面による申し入れをしなかったのであるから、右病院の改訂申入れは協約第一四一条第一項に定める改訂申し入れとは認められない。従って、右改訂申し入れにも拘らず、協約第一四一条第二項の規定により、その協約は更に一年自動更新されたものと云わざるを得ない。そしてその後病院、組合双方とも次期協約について改訂の申入れをしていないから、協約第一四一条第二項により、現在迄更新されて来ているのである。

仮りに、右改訂申し入れが協約第一四一条第一項に定める改訂申し入れに該当するとしても、協約第一四二条本文によれば、期限後二ヶ月で協約が失効することになるのであるが、病院側は、右期間経過以前において、同年五月一七日には「労働協約の一部を改正する協定」を組合との間で締結しており、その後毎月の賃金支給は勿論、同年夏の一時金の計算基準も、同年九月の不均衡是正についても、労働協約に従って来たものであり、また同年一一月二一日付で病院が組合宛に発した「労使協議会」開催申入れは、右協約第八章第一節の規定に基づくものであったから、これらによって明らかなとおり、昭和三七年五月の前記「労働協約の一部を改正する協定」は当然に労働協約の存在を前提にしているものであり、従って先になされた改訂の申入れは、撤回されたものと云うべきである。

(2)  ところで、労働協約第一八条、第一九条の規定は次のとおりである。

第一八条、荘は組合員が次の各号の一に該当したときはこれを解雇することができる。

一、休職期間が満了しても復職できないとき、

二、懲戒解雇処分が決定したとき、

三、打切補償をうけたとき、

四、無断欠勤三週間に及んだとき、

第一九条、荘は組合員を次の各号の一に該当する事由にて解雇しようとするときは予め労使協議会の議をへるものとする。

一、天災地変その他やむを得ない事由により事業を縮少するか閉鎖する場合、

二、その他重大な事由があると認めるとき、

これに対し就業規則第三六条は次のとおりである。

第三六条、職員は次の各号の一に該当するときは解雇されることがある。

一、勤務成績が著しくよくないとき、

二、心身の故障のため職務の遂行に支障があり又はこれにたえられないとき、

三、著しい非行があったとき又は非行行為を度重ねたこと等により職員として必要な適格性を欠くとき、

四、業務量の減少等経営上やむを得ない事由があるとき、

右両規程を対比すれば明らかなとおり、就業規則に定める解雇規定は、労働協約に定めてある解雇の場合の「労使協議会の議をへること」の手続的な既得権を労働者に不利に変更したものであるばかりでなく、解雇事由についても、解雇基準を「経営上やむをえない」という概括条項を入れることによってその範囲を拡大し、著しく不利益に変更したものであって、労働協約に牴触することが明らかであり無効である。

(3) 仮りに前述の労働協約の有効無効の論点を別にしても、従前の労働協約に定められた労働条件の基準は、変更の合意のない限り、労働契約上各人の労働条件として存続し、新たな就業規則に定める労働条件に拘束されないことは明らかである。右労働条件とは、賃金、労働時間のみならず、解雇規定も含まれるものであるから、労働協約及び就業規則の有効無効にかかわりなく、右に述べたように従前より労働者に不利益な解雇規定を就業規則で定めたとしても、労働者に対してはなんの拘束力も有しない。

(三) 本件解雇は労働基準法に違反し無効である。

(1)  被控訴人は控訴人を就業規則第三六条第四号に定める「業務量の減少等経営上やむを得ない事由があるとき」に該当するとして、右規定を適用して解雇したものである。ところで、労働基準法は「労働条件の最低基準」を定め、それゆえに解雇制限規定を置いているのであるが、その第一九条において、「天災地変その他やむを得ない事由のため事業の継続が不可能になった場合」にはこの限りではないと定めている。被控訴人の主張する前記就業規則第三六条第四号は右労働基準法第一九条に類似するが、これを拡張させた規定であるから、右就業規則の規定は前記労働基準法第一九条の規定を拡張する限りにおいて無効と云うべきであり、況して、本件の場合のように、控訴人の責に帰さない事由で仮りに医師の派遣が困難であり、医局の再建が困難であるとしても、それは労働基準法に定める解雇制限規定たる前記第一九条には該当しない。前記就業規則が本件の場合のようなものまで含むとすれば、明らかに労働基準法に違反して無効であると云わねばならない。従って本件解雇も亦無効である。

(2)  労働基準法第二〇条の定める解雇予告手当は、解雇の言渡と同時に支払わねばならないものであるから、予告手当の支払のない解雇が無効であることは勿論のこと、被解雇者が受領しない場合においては、少くとも供託し、被解雇者がいつでも受領できるように通告しなければ、その解雇は無効である。しかるに本件解雇は即時解雇であり、控訴人は未だに予告手当を受領せず、また被控訴人は今日に到るまで予告手当を供託していないこと明らかであるから、本件解雇は無効である。

(四) 本件解雇が解雇権の濫用であることの理由として次の事情も考慮さるべきである。すなわち、控訴人は、昭和二五年二月二八日松籟荘に勤務して以来本件解雇通告を受ける迄、一貫して同病院に勤務し、同病院の中で国立当時より勤務する数少い職員の中の一人であって、病院の発展のため文字どおり心血を注いで来たものであり、控訴人が病院の民主化・能率化に果した役割は絶大なものであったし、またその熱心な診療態度からして患者から絶大な信頼をかちえていたものであった。しかるに被控訴人は、昭和三九年八月二一日付をもって解雇通告をなして来たものであるが、その間に示した解雇の理由は、「病院にいては困る」との一点のみであって、何ら具体的、実質的な理由を示さず、いきなり解雇したものであって、右解雇通告に至る迄の控訴人に対する病院側の態度はまるで罪人扱いであった。本件解雇について、被控訴人は、控訴人がいては医者が来ないとか、病院の再建ができないというが、被控訴人が真にどれだけ努力を払ったか疑問とせざるを得ない。また被控訴人は控訴人に協調性がないというけれども、それは控訴人が榛名病棟閉鎖に反対したことだけをいうに等しい。このような解雇の動機、方法、客観的な周囲の状況からすれば、本件解雇は解雇権濫用の典型的なものである。

(五) 本件仮処分の必要性について次のことを付加する。

(1)  控訴人の家族は、第一審判決事実摘示のとおり、妻、子供二人(長男四年二月、次男二年四月)及び母(七四才)の四名のほかに、お手伝さんが一名いるが、控訴人の家族の総収入は、現在妻の月収七万円に控訴人が組合から受取る三万円だけである。控訴人は、本件解雇通告のあった当時借家に住み賃料を支払っていたが、昭和四一年一〇月に現在の公団住宅の賃借アパートに入居した。このような状態のもとで、妻の月収七万円は、うち五万五〇〇〇円は家計の基本費として、残る一万五〇〇〇円は妻本人の交通費、交際費や本人、子供の身の廻り一切の費用に充当されている。また控訴人が組合から受領する三万円のうち斗争中の身として諸経費に一万円以上必要であるから、家計にくり入れ得る金額は二万円以下であり、これと妻からの前記五万五〇〇〇円と併せて家族五人及びお手伝さんの生活一切をやりくりしていかなければならない。従って、医者としての必要な書籍を買入れたり、社会的な儀礼や品位を保つ余裕のないことは勿論、長男の幼稚園入園に伴う費用や老弱の母の扶助、療養費用の捻出に苦しむ状態である。控訴人の妻が医院に勤務しているのも、控訴人に所得がないため、家庭に入りたい本意に反し、やむなく為しているものである。

(2)  松籟荘病院の累積赤字は大きく、現在一億円を超えているであろうから、被控訴人は当然同病院の存続についても考えていると云わざるを得ない。これから本案訴訟で三年、五年と訴訟を続けて確定させたとしても、控訴人に対する未払賃金、一時金(現在まででも三〇〇万円を超えている)を執行することは到底不可能であろうし、その内には病院が廃止されてしまうことも考えられないではない。この点からも本件仮処分の必要性は大である。

(3)  昭和三七年一二月被控訴人が駐在員を病院に派遣した当時、組合は職員約二二〇名位のうち大部分の一八〇名以上の組合員を有していたが、その後被控訴人及び病院が従来控訴人主張のようなありとあらゆる不当労働行為を行った結果、組合員は極度に減少し、現在わずかに三〇名を残すのみとなった。本件解雇は、この一連の不当労働行為の中心に位置するものであり、病院側は、控訴人の組合活動につき組合ニュースの配付行為すらもこれを妨害、禁止している状況であって、組合の中心的な活動家である控訴人としては、かかる組合活動の制約につき、被控訴人及び病院の不当労働行為助長と組合の弱体化を惹起するものとして、重大な不利益を受けている。

(4)  本件解雇後の昭和四一年四月現在、病院には院長を含む常勤医三名と非常勤医五名がいるのみであって、常勤医の不足は明らかであり、控訴人が常勤医として戻ること自体緊急かつ必要なものである。

(六) 被控訴人は、本件解雇理由として、控訴人の非協力的態度、非協調的態度を云うが、その非協力的、非協調的態度として具体的に挙げているのは、控訴人が榛名病棟の閉鎖に反対したこと及び当直をしなかったことに帰する。

しかしながら、控訴人の榛名病棟閉鎖についての反対行動は、従来主張したとおり、労働組合の決定に基づき、組合員として行ったものであって、医局における非協調性に由来するものではなかったのである。従って本件解雇は、医局内における組合活動家又は組合方針の支持者を排除し、嫌悪する意識のもとに、控訴人の右病棟閉鎖反対の組合活動を理由になされたものであり、不当労働行為であると云わざるを得ない。抑々、病院側は、榛名病棟閉鎖問題について、看護婦不足対策の一環として、看護体制の集約を計り、看護婦の労働緩和に資するために必要だとしているが、閉鎖される榛名病棟は重症患者の病棟であることから、看護婦は重症患者について廻るだけであって、その実質的労働密度及びその多忙さは殆ど変らず、却って、重症患者を受け入れる病棟の看護婦の労働を強化する虞れすらあり、更に、重症患者と軽症患者が一緒に扱われたり、開放性と非開放性の患者を分離する建前が崩されることになると、寧ろ従前の集中した合理的な能率的な看護ができなくなる虞れすらあったのである。しかも、当時看護婦数が絶対的に足りないということはなかったのであるし、病院側は、昭和三七年暮以来前述のような連続的、系統的な組合攻撃をなして、看護婦が集まり難い状況を作り出していたのであるから、看護婦の減少、不足に対する対策は組合に対する弾圧をやめ、労働条件を向上することにこそあるのであって、看護婦の減少、不足を理由に病棟閉鎖をすることは、正に論議が逆であったのである。にも拘らず、病院側が患者や組合の云分に全く耳をかさず、病棟閉鎖を強行しようと執着し、「一時な閉鎖だ」と云いながらも、「再開の見通しは非観的である」とか、「このまま進めば第二、第三の閉鎖も考えられる」とか云うに到っては、組合や患者の不安を大きくし、この病棟閉鎖を許せば、当然企業縮少による人員整理にまで発展し、一方、結果的には結核ベッドの縮少となって患者の療養に重大な影響を及ぼすと考えられたのは、至極当然のことである。病棟の閉鎖が単に医療に従事する労働者の生活権をおびやかすだけでなく、結核病棟の縮少、医療の破壊に通ずるものとしてこれに反対することは極めて重要なことであったのである。本件榛名病棟閉鎖問題が被控訴人による一連の病棟縮少の意図に出でたことは、その後、従前主張の昭和三九年一一月証券及び三井の委託病棟、同年一二月警察の委託病棟(旭光寮)、昭和四〇年二月外科病棟二階のほか、同年四月高尾病棟、同年七月赤城病棟、筑波病棟、三越、石川島病棟、同年一〇月榛名病棟がいずれも閉鎖されたことによって、これを窺うに十分である。

被控訴人は、本件病棟閉鎖問題の直後大量に医師が退職し復職しなかった理由や、その後医師の補充について関係大学の新規派遣を要請してもこれが得られなかった理由として、控訴人の非協調性又はその風聞を挙げているが、医師の退職は病院側の病棟閉鎖案に対して患者が反対したために一時病院の診療状況が混乱したという事実や医局の方針が容れられなかったという事実に対する反撥ないし嫌悪から退職したと認められるのであって、控訴人個人が医局にいるからという理由で退職した事実は全くなく、又新規医師の派遣が得られなかったということは、却って退職した医師や関係大学の患者会や組合に対する偏見、反感を窺わせるにすぎず、病院側としては、病棟閉鎖問題による一時的な混乱はあっても間もなく平穏に戻るものであり、控訴人に関する主張のような風聞があるとすれば、それは根拠のないものであることを説き得た筈である。寧ろ、病院側は、反組合的意図のもとに右風聞を助長し、千葉医大が医師派遣の鍵を握っていることと、医局への隠然たる強制力を有していることを利用して、新規医師の派遣を得られないことを名目に、組合の中心的活動家である控訴人を病院から排除しようという病院の方針を強行したものと云えるのである。

また控訴人が昭和三九年当時当直勤務をしなかったことは事実であるが、昭和三六年頃までは人一倍当直をして来ているのであって、控訴人が当直をしなくなったのは、(イ)佐藤医局長が自発的、好意的に控訴人の当直勤務をはづして他の医師で当直を組むと云ってくれたからであり、(ロ)単に院長命令だから当直をやれというのは不合理であり、(ハ)当直というのは契約を締結しなければできない性質のものであり、(ニ)賃金カットの額に比し当直料が安すぎる不公平があり、(ホ)当直をやらない医師は他にもいる、等の正当な理由からである。

と述べ、証拠≪省略≫

二、被控訴代理人は、右控訴人の主張に対する答弁及び従前の主張に付加するものとして、

(一)  控訴人主張の前記(一)の(1)の事実を認めるが、右のような給与上の組合と職員組合(控訴人主張の第二組合)との差別は、要するに、両組合間における勤務時間制及び病院経営に対する協力の姿勢、態度並びにその実績に基づく妥結条件の相違によるものであって、何ら不当な差別には当らない。また同(一)の(2)の事実のうち、医事課事務室の組合事務所側窓ガラスの取替え、同課長事務机の方向替え、組合事務所内電話の院内通話取継ぎの中止、組合費以外の控除事務の中止、昭和三九年一二月一五日、昭和四〇年四月二三日、同年六月一日における組合の病院施設内無届集会に対する散開要求等の措置は認めるが、組合員に対する脱退勧告の点は否認する。前記措置は、いずれも、病院施設管理上の措置或いは職場秩序維持のためとられた正当な措置である。

(二)  控訴人の前記(二)に主張の労働協約は、昭和三七年五月三一日限り失効している。すなわち、昭和三四年七月一一日締結された労働協約は、その後一部改訂を行い、昭和三七年三月三一日までを有効期間として存続して来たところ、病院は、右協約所定の有効期間満了一ヶ月前である昭和三七年二月二八日に、次期協約について改訂申入れをなしたが、その改訂協議が右協約所定の二ヶ月の自動延長期間内に成立せず、そのため右協約は、二ヶ月の自動延長期間満了の昭和三七年五月三一日限り失効したものである。控訴人主張の昭和三七年五月一七日の協定は、昭和三六年一〇月一六日要求提出のあった賃上げ問題につき、昭和三七年五月一七日、賃上げ(給与改訂)妥結に伴い、従来労働協約別表に表示されて、各人の給与条件の基準と定められていた給与表を変更したものにすぎず、この労働条件の一部変更に関する協定の成立は、次期協約改訂の申入れと何ら矛盾するものではなく、これをもって改訂申入れの撤回とみるべきものではない。労働条件の一部変更の協定が従前の労働協約所定の基準を改訂するとの形式、表現をとったとしても、これをもって従前の労働協約全体の有効を前提とするものということはできない。また、自動延長期間経過後において、毎月の賃金支給、一時金の計算基準等組合員の給与条件につき、従前の労働協約が定めていた基準によったことは、協約失効後において、個別的な変更の合意或いは新らたな協約の締結がない限り、労働契約上当然の取扱であって、これをもって、従前の労働協約の有効な存続を前提とするものということはできない。更に控訴人主張の如き昭和三七年一一月二一日の「労使協議会」開催申入れというところのものは、昭和三七年度年末一時金要求に対する病院側回答提示のために労使会合を申入れた際の通知が「労使協議会開催申入」となっていたというにとどまり、これも何ら従前の労働協約そのものの効力の存続にかかわらないことである。要するに、控訴人主張の如き事由をもって、改訂申入れの撤回と見、自動更新を反覆して現在まで協約そのものが全体として有効に存続していたとすることはできない。右のように昭和三七年五月三一日労働協約が失効したのに伴い、解雇につき「予め労使協議会の議を経るもの」とする協約第一九条のいわゆる解雇協議約款も失効したものであるから、これが有効を前提とする控訴人の協約違反、解雇無効の主張は失当である。

(三)  控訴人の前記(三)における労働基準法違反を理由とする解雇無効の主張は、基準法の解釈を誤ったもので、失当である。

(四)  控訴人の前記(四)における解雇権濫用の主張は争う。

(五)  本件仮処分の必要性は存しない。すなわち、控訴人は現に月額五万円の収入を得ており、これに妻の月収七万円を合わせると、家計費として月一二万円の収入をもって普通程度以上の生活を営んでいること明らかであり、また、病院側は、控訴人の組合員としての活動につき、組合事務所以外の病院施設内での組合活動のための立入はこれを禁止しているほかは、雇用関係終了前と何ら異る取扱をしていない。更に、控訴人が医師として病院に勤務すべき必要性なるものは、病院がその必要なしとして解雇しているものである以上、仮処分の必要性とはなし得ない。

(六)  控訴人に対する本件解雇は、控訴人をこのまま引きつづき病院勤務医として擁して行くことは、控訴人の独善的非協力的態度の故に、病院事業の円滑な維持運営に重大な支障をもたらすものと認められたためになされたものである。

病院の立てた榛名病棟の一時移床計画は、看護要員の勤務単位を一つ減少して、これに配置されていた看護要員を他の勤務単位に重点的に配置することにより、看護要員の夜勤頻度を少くして、看護婦の労働緩和に資することとなり、患者看護の面で従前より質的な向上が期待されるものであって、病院医療体制維持のための最善の施策であった。しかるに控訴人及び組合は、看護婦数の絶対数に変りはないとか、病院側が故意に看護婦の充足をサボっているとか、または、労働条件の向上が先決であるなどと理由をこじつけて、この施策が有する明らかな看護上の利点を患者の目から隠し、更に、この施策の実行が国の結核ベッド縮少政策に連がるものであるとの全く独断的な見地から政治的問題に転化して、組合及び患者の反対行動を組織したものであって、昭和三九年二月一〇日計画発表から同月二〇日患者大会に至る間における医師達の患者に対する誠意ある説得と努力の反対側における控訴人の言動は、同じ病院医療陣の一員であるものの行動としては全く理解に苦しむものであった。病院の看護体制維持という純然たる医療上の施策に対して、これが医療の破壊であると唱えて、その行動によって当面の医療施設の混乱を惹起することは、控訴人の独善的な信念においては、「大事の前の小事」であるかもしれないが、労使対抗のために手段を選ばず、ことさらに紛争を惹起して患者をこれに巻き込み、これを組合の正当な活動であると考え、自らかかる組合の指導的地位にあるものとして任じている控訴人の在り方は、正に、病院医療の破壊に連がるものであり、かかる者を病院医療の担当者の一員に擁して行くことは、病院として到底なし得ないところである。

昭和三九年三月九日の右計画撤回声明の後、病院長は組合、患者の強要によって、「確認書」(甲第二六号証)を作成せしめられたが、そこで確約せしめられている看護婦獲得、医療従事者の確保は、現実的には明らかに病院側に不可能を強いるものであった。しかし、その当時における院内状況は、組合、患者のいうなりにこれに調印せざるを得ない極めて異常な状況であったのであり、このような無責任の要求を病院側に力をもって確約させた上、その履行を病院側に要求し、これが不履行を病院側の怠慢と非難し、これを労使対抗の具に供しようとする控訴人及び組合の態度は、ただ斗争のために、病院経営をあえて行きづまりに追い込もうとするものであった。医師として、医療確保に当っては他の医師と等しくその責任を分担すべき立場にある控訴人が、自らはその責を分担しようとはせず、専ら前記確約の履行を求めて医局に対立した立場に立つものである以上、医局の協調性は到底維持し得るものではない。

右のように、昭和三九年七月の段階において、もはや控訴人を病院勤務医から外す以外には、医局の補充、今後における医局の正常、円滑なる運営が期し難いこと、極めて明白となっていたのである。

控訴人は、自分が患者共斗或いは患者の実力行動を煽動或いは指導したものではないというのであるが、医師の立場にあり、また看護婦等多数の看護従事者を組合の名で指導する立場にあった控訴人の言動や、控訴人の名で発行配布された組合ニュース等に見られる組合の動きが、長期間社会より隔離されている入院患者の不安定な情緒に大きな影響力を及ぼさない筈がない。従って榛名病棟問題における患者動員は、控訴人の右のような影響下に行われたものである以上、患者を煽動したものであること明白で、これを患者の自発的行動と云う控訴人の云い分は独善的なものであって、前記のような入院患者を預る医師としての適格性すら疑問とせざるを得ず、このような独善性が医局の協調性維持の上には最大の障害なのである。

と述べ、証拠≪省略≫

理由

引用に係る原判決事実摘示中の申請理由第一、二項は当事者間に争いがない。

控訴人は本件解雇は無効であると主張し、被控訴人はその有効を主張するので、本件解雇がなされるに至った前後の労使間の関係を含めて本件解雇の経緯を検討するに、当事者間に争いのない事実と≪証拠省略≫によれば、次のように一応認められる。すなわち、

一、控訴人の組合活動歴は前掲申請理由三の1の(一)の(1)及び(2)のとおりである。右のように、控訴人は従来組合(松籟荘労働組合)及び健保労連(健康保険病院労働組合連合会)の中心的存在として活溌な組合活動を行って来た。

二、組合は、昭和二七年七月病院(社会保険病院松籟荘)の従業員中約三〇名をもって結成され、その後組合員の数は次第に増加して、昭和三七年一二月頃当時には従業員総数二〇〇名程のうち一七〇名を超えており、被控訴人(全社連)傘下の病院等の労働組合中最も先進的、活動的な組合であったが、右昭和三七年一二月頃以降次第に組合員の数は減少し、昭和四〇年六月頃には全従業員約一四〇名中約四〇名に減少し、現在は約三〇名となっている。

三、病院には昭和二七年制定の就業規則が存したが、組合は病院との間に昭和三四年七月一一日期間を昭和三五年三月三一日迄とする労働協約を締結し、昭和三五年四月及び昭和三六年四月の一部改訂を加えつつ、一年毎に更新し、その結果、昭和三七年三月三一日を有効期限とする協約が成立するに至った。病院は同三七年二月二八日、組合に対し、協約第一四一条第一項に基づくものとして、次期協約について改訂を申入れた。協約第一四二条によれば、自動延長期間たる二ヶ月以内に次期協約の協議が成立しないときは、協約は失効することになっていたが、右改訂申入に基づく次期協約の問題は同年の春斗の中にあって未解決のまま推移した。しかして、右協約のもとでは、従業員の給与は、全社連給与規程と異り、公務員のそれに準ずる体系がとられ、また前記昭和三五年四月の一部改訂により協約上従来の一週四四時間勤務制が一週四一時間勤務制に改められ、爾来前記自動延長期限たる昭和三七年五月三一日以降も全従業員について四一時間制が行われ、給与、一時金等の面で四四時間制と同一に評価されて来た。ところで、全社連は、昭和三五年中に、健保労連の意見を聴いて、勤務時間週四四時間制を含む就業規則準則を作り、その頃、傘下病院等に対しこれに準拠する就業規則制定を指示していたが、前記のように組合活動が活溌で、勤務時間の点等で全社連の立てた方針と異るものがあり、かつ負債二〇〇〇万円を超えていた松籟荘病院については、その経営管理陣の一新、労務対策の再建のため、昭和三七年一二月初め、病院事務長を更迭するとともに、駐在員二名を病院に派遣した。

四、病院は、前記昭和三七年一二月初めの全社連よりの事務長更迭、駐在員派遣を受けてから、にわかに組合に対する労務対策を強化し、この間において病院側の執った行為のうちには、後記のように、千葉地方労働委員会で救済命令が発せられたとおりに不当労働行為と見られるものが数々存し、組合はこれらに反撥して、労使間の関係は悪化の一途を辿った。すなわち、

(a)  昭和三七年年末一時金について、病院は誠実に組合との団体交渉を尽さず、その金額を一方的に決定してこれを供託した。しかし従来は、団体交渉を重ねて妥結したところに従って支給するのが例であったし、右決定金額も、従来の慣行と異り、全社連給与規定を基準としたものであって、正当な理由なく団体交渉を拒否したものであった。

(b)  病院側は(イ)昭和三七年年末一時金につき、組合との団体交渉の継続中或いは決裂直後、個々の組合員に対し、右全社連方式による一時金の受取方を直接要求したことがあり、(ロ)昭和三七年一二月下旬頃昼食時間中に行われた組合の職場抗議集会に参加した組合員を至近距離にて写真撮影をし、(ハ)同じ頃、看護婦勤務室から組合ニュースを無断持去ろうとして発見されて回収され、(ニ)特別な必要もないのに同年一二月上旬から下旬にかけて数回に亘り、組合に対し書面をもって、従来組合が組合事務所として供与を受けて組合活動の本拠として使用中の病院内一室の明渡方を強く要求し、(ホ)病院にとっては事務上さして利益になることではないのに、昭和三八年二月初め、組合に対し書面をもって、組合費等控除事務を同年二月分以降中止する旨通知し、以来右事務を中止した。これらはいずれも組合の運営に対する不当な支配介入行為であった。

以上(a)、(b)における病院の行為等について、その頃組合は、千葉地方労働委員会に不当労働行為救済の申立をなした(千労委昭和三八年(不)第一号)。

(c)  病院は、協約は昭和三七年五月三一日の前記自動延長期限経過をもって失効したとの主張のもとに、昭和三八年二月初め頃、勤務時間週四四時間制を含む全文六〇条よりなる新就業規則案を組合に提示して意見を求め、同月一五日頃には右案を従業員全員に配付した。そして病院側は、右案につき、八回程、組合と逐条的な協議を行ったが、その間に示された組合の意向が協約に定めている労働条件より低下するところがあるとして原則的に右案に反対するものであった上、予期のように協議が進捗しなかったので、病院は同年三月二九日三五条迄の協議段階で以後の協議を打切り、同年四月一日右案を成文として所轄労働基準監督署長に届出て同日から実施した。組合は協約の有効存続を主張して、右就業規則実施に飽く迄反対し、前記四一時間制は協約によって獲得した既得権であるとして、その後も四一時間勤務を続け、一方病院は、六ヶ月間の猶予期間を置いた後、同年一〇月一日からは組合員に対し、賃金カットを強行するに至った。右就業規則の実施に伴い病院と組合間の対立は、一層激化し、以後の紛争は、主として、右勤務時間をめぐる対立に基因している。組合は、昭和三七年一一月賃上げ等の要求書を病院に提出していたが、前記(a)の昭和三七年年末一時金支給をめぐる紛争が生じて、右賃上げ等の要求についての交渉は全然進展しなかったので、昭和三八年二月初め右要求貫徹のためスト権を確立し、同月一五日には右新就業規則による労働条件引下に反対するためのスト権をも併せ確立し、以後恒常的な争議状態に入ったのである。

(d)  組合は、前記ストの一環として、同三八年三月一日、八日、二七日、三〇日と時限ストを行った。病院は右各ストに関し、組合員に対し、スト中も平常通り就業を命ずる旨の業務命令を発した上、組合書記長が右三月二七日のストに関する病院の業務命令書を回収して返還しなかったことを理由に、同年四月初め、書記長及び組合長を処分する旨の処分予告をなし、更にその頃組合に対し、書面にて、今後業務命令に違反すれば就業規則に基づき厳正にその責任を追及する旨の通告をし、もって組合の運営に対し不当な支配介入を行った。

(e)  病院は、昭和三八年度夏期一時金について、前記(a)の場合と同様、誠実に組合との団体交渉を尽さずに、その金額を一方的に決定してこれを供託し、もって正当な理由なく団体交渉を拒否した。

以上(d)(e)における病院側の行為等につき、その頃組合は、千葉地方労働委員会に対し、不当労働行為救済の申立をなした(千労委昭和三八年(不)第三号)。

(f)  前記不当労働行為救済申立事件につき、千葉地方労働委員会は、組合側申立事由のうち前記(a)、(b)並びに(d)、(e)記載の病院側の行為を不当労働行為と認定し、昭和三九年三月二四日(前記第一号事件)並びに同年四月二一日(前記第三号事件)に夫々救済命令を発した。

(g)  前記のように病院により賃金カットが行われていた最中の昭和三九年二月から三月にかけていわゆる榛名病棟閉鎖問題が生じ、後記のようにこの問題をめぐって、病院入院患者の自治組織である赤松療友会と組合は共斗体制をとって病院の計画に反対し、患者が坐込みをなすという事態を生じて、病院は患者及び組合の反対に屈したのであるが、組合はその機会に同三月二五日、院長代理名義の病院事務長との間に、今後の就業時間は四一時間で行うこととし、前記賃金カットは行わない等の旨の覚書を交わし、よって右賃金カットは打切られた。

右の報告を受けた全社連は、同年四月、右覚書は異常な情勢のもとに強制的になされたものであり、かつ無権代理行為であるから、無効であると主張して、健保労連との中央団交において、その破棄を申入れたが、組合は依然その後も事実上週四一時間の勤務を続けた。また、前記病棟閉鎖問題の紛争の結果として医局員の退職が相つぎ、これに伴って患者の減少を招き、病院財政も亦急激に悪化の傾向を辿った。そこで全社連は、管理陣を更に一新して病院の右経営、労務管理上の事態に対処させるべく、同三九年六月一日付をもって、山口病院長代理(全社連常務理事)、渡辺事務長代理(全社連職員課長)、大川事務次長を病院に派遣した。

(h)  昭和三九年六月下旬頃、病院事務局の係長級が発起人となり、約三七名の従業員によって職員組合すなわち控訴人のいわゆる第二組合が結成され、そしてその後病院は、組合に対する労務対策を一層強化するに至った。すなわち、労働協約の存続の有無についての病院及び組合の前記各主張のいずれが正しかったにしても、右協約が有効であったもとにおいて行われて来た労働契約は、特別な変更の合意なき限り、そのまま存続するものと解すべきであるから、協約に定めてあった勤務時間についての四一時間制及びこれに基づく給与上の措置は、たとい病院側が主張したように、昭和三七年五月三一日の経過をもって協約が失効したとしても、以前からの従業員については、その後も、労働契約上、労働条件の基準として取扱わるべき関係にあった。従って、右関係や前記覚書に基づき、就業規則に定める四四時間勤務制による規律を拒否した組合の態度は、労働条件の維持、向上を主目的とする労働組合の態度として当然のところであった。一方、前記職員組合の組合員は、右既得の四一時間制による利益を輙く放棄して、右就業規則遵守を承諾したものであった。しかるに病院は、右労働条件維持を主張し、かつ、正常な争議を行為を行う組合及び組合員を嫌悪することに因り、組合及び組合員に対し、控訴人の主張し、かつ千葉地方労働委員会が組合申立の不当労働行為救済申立事件(千労委昭和四〇年(不)第二号)について昭和四一年五月三一日発した救済命令で不当労働行為と認定しているとおり、前記職員組合が右就業規則を遵守することのほか、その表現において抽象的で、意味内容において不明確な「院内服務規律の確立、病院再建への協力」なる条件等を承諾したことを理由として職員組合員との間に昭和三九年夏期一時金、昭和三九年七月期以降の各昇給期の定期昇給、昭和四〇年五月の給与改定について夫々不当な差別待遇を行い、また、かかる差別待遇を行いながら、右条件の外更に「向う六ヶ月争議行為を行わない」との条件承諾の有無を理由に同様同三九年年末一時金及び同四〇年夏期一時金について差別待遇を行い、更に、昭和三九年九月一五日頃控訴人の組合ニュース配付を妨害し、同年一〇月一九日頃には組合事務所廊下側入口を一方的に閉鎖し、組合員の行動監視の目的で医事課事務室の窓硝子を取替え、同課長の机を方向替えし、昭和四〇年二、三月頃看護婦ら組合員に対し個別的に組合脱退を勧告し、同年三月頃保清婦の配置換えにおいて組合員なるが故に不利益な取扱いをし、同年三月一二頃組合事務所電話の院内取継ぎを中止し、同年三月一九日頃通常組合費以外の月賦金等の控除事務を中止し、昭和三九年一二月一五日、同四〇年四月二三日、同年六月一日頃の各ストライキを妨害する等し、もって組合員に対する不利益取扱や組合の運営に対する支配介入の行為を次ぎ次ぎと強行した。

控訴人に対する本件解雇は、前記のように右職員組合が結成され、病院が、昭和三九年夏期一時金支結及び同年七月期の定期昇給について、組合員に対し、前記職員組合員との関係で不当な差別待遇と見られる行為をなし、組合がこれに関して同月二二日スト権を確立した後に行われたものであって、これに対し組合は、更に同年八月二五日右解雇撤回要求のためスト権を確立し、上述の恒常的な争議状態の様相を一層激化させるに至った。しかしながら、以上の病院側による差別待遇、支配介入の行為の間において、前記のように組合員の数は次第に減少し、組合は弱化した。

五、病院は昭和三九年二月、病院における看護婦不足の対策の一環と称して、設備の比較的古い榛名病棟の患者を石川島、三越、東京証券、三井各健康保険組合からの委託病棟に一時移床する計画を立て、関係健康保険組合の了解を得て、同月一〇日右計画を発表した。病院が右計画の趣旨とするところは、当時病院の看護婦が不足していて、十分な看護ができない上、労働過重を来していたので、その打開策として、榛名病棟の患者(当時約五二名)の移床に伴って同病棟看護婦七名の配置換えを行い、看護体制の集約化効率化を計り、看護婦の夜勤頻度を少くし、かつ労働緩和に資することを目的とするというにあった。当時、看護婦の不足は、本病院に限らず、全国的な現象であって、病院としても、従来看護婦の獲得のため外部に働きかける手段を種々講じてはいたのであるが、及ばなかったのであり、早急の不足緩和は殆ど望めない状況であった。しかして病院は、院長らの口頭説明や病院ニュースにより、右計画について、入院患者の自治組織である赤松療友会幹部を含む患者らや組合に対し、前記病院の趣旨とするところを説明して右計画に協力することを繰り返えし求めた。しかし、赤松療友会は榛名病棟の患者のみならず、その他の病棟の患者大多数の意見をもって、看護婦の不足が解消されない限り、第二、第三の病棟閉鎖の虞れがあり、かくては退院後再発等の場合に入院困難となると不安に思うとともに、病院の計画は国の結核ベッド縮少政策に連るものと疑って、看護婦獲得に努力して来た旨の病院の説明を納得せず、看護婦の増員を要求して右計画に反対した。また、組合は、看護婦不足は昭和三七年一二月以来病院側が行って来た組合弾圧、労働条件低下の故であるとするとともに、病院の計画は看護婦の労働緩和に役立たず、却って企業合理化、人員整理に連るものであるとし、組合弾圧をやめ、労働条件を向上させることを要求して、右計画に反対した。患者会と組合は、それぞれの立場で右計画に反対を決めたのであるが、目的を一にするところから、共斗体制をとり、右計画の撤回を目指して、互に対策を協議するとともに、病院に対し集団交渉をなし、また声明書や組合ニュースで文書活動を活溌に行った。すなわち、同年二月一五日赤松療友会幹部から「榛名病棟閉鎖に関する抗議並びに要望」なる書面が病院に提出され同月一八日組合の臨時大会において計画絶対反対、赤松療友会との共斗を決議し、同月二〇日赤松療友会による計画反対決起大会が開かれ、組合もこれに参加して(患者約三〇〇名参加)、交々、院長らに対し、右計画の趣旨を追究し、同月二六日赤松療友会と組合の共斗声明を発表し、同月二七日組合は計画反対のためのスト権を確立した。そして、赤松療友会と組合の共斗委員会は、同年三月六日に右計画反対、看護婦増員要求の決起大会を開くこととし、その数日前から院長に出席を求めたが、院長は欠席を回答した。組合の文化教宣部長である控訴人が三月六日付で発行した組合ニュースによれば、同日の大会に対する院長の態度次第(例えば大会に院長が出席しない場合)では、患者は坐込みも辞せずとの態度を固めているとされていた。かくて三月六日の決起大会をむかえたが、院長ら病院側は全く出席しなかったので、これに憤激した患者らは、坐込みを行うことを決議して、直ちに患者五、六〇名が院内玄関附近の廊下で坐込みに入り、以後病院側当局が拱手して特別な措置を講じなかったため、同月九日迄、連日患者による坐込みが実行された。此の坐込みの間、組合員の非番の看護婦四、五名はその場について看護に当り、坐込みを行う患者は随時交替した。

病院側当局は、患者会や組合の前記反対運動の模様からして、同年二月二〇日頃には既に右移床計画の早期実現は不可能と考えていたが、患者の坐込みという事態の発生により、ついに三月九日院長において右計画を撤回する旨声明するに至り、患者らは坐込みを解いたのであるが、赤松療友会と組合は、右撤回声明に関し更にその文書化を要求し、これに基づき院長は、同月一七日付で、現在の結核ベッド数を今後も確保し、充分な医療保障のため医療従事者を確保し、かつ、同年六月末迄に看護婦数を九〇名迄に充足すること等を確約する旨の確認書を作成した。そして組合は以後右確約事項の実行につき病院を追及した。また組合は、前記のように、同月二五日、院長代理名義の病院事務長との間に、病院が四一時間勤務を認める趣旨の覚書を取交わした。

以上の経緯の間にあって、控訴人は、右榛名病棟の患者移床計画について医局ではただ一人反対の意見を持し、医局会の席でその意を表明するとともに、また組合幹部として組合の反対行動を指導し、特に、文化教宣部長として、組合ニュースを発行し、組合の前記反対趣旨の伝播に努め、赤松療友会との共斗を呼びかけたりし、前記同年二月二〇日の赤松療友会の決起大会では、右患者移床は病棟閉鎖の目的で病院が計画的になすものだと発言して病院を攻撃した。なお、患者が坐込みを行った当時は、他の医局員は多く非常の事態発生に備えて医局に詰めていたが、控訴人は健保労連の戦術会議に出席し病院を留守にしていた。

一方、医局の医師ら(院長を入れて一二名。但し歯科医を除く)は、控訴人を除き、右計画に賛成であったばかりでなくその中には、医局員として右計画樹立に参画したり、右計画発表当初関係病棟医として、患者に右計画を直接説明した立場にあった者もあったところから、前記のような患者らの反対の動向を憂慮し、同年二月二〇日付で、院長、副院長、控訴人を除く九名の医師連名により、患者宛の「医局声明」を発表し、右計画の趣旨を説明して、右計画に協力方を要望した。しかし、患者らの反対意思はその後益々強化し、その赴くところ、いきおい、右計画に賛成の医師に対する病棟内の空気は不穏となり、診療のため病棟内に立入ることについて身体の不安を感じさせるような例も生ずるに至ったので、このような状況では、患者との信頼関係に基づき良心的な診療をなすことはできないとして、前記院長による計画撤回声明の前後頃から、相次いで辞表を提出する医師が生じ、ついに院長と控訴人を除き、全員が辞意を表明するに至った。この間において右医師らは、控訴人が同じ医局員でありながら右計画に反対し、かつ医師でありながら患者を労使間の紛争に巻き込んだとして、控訴人の行為を著しく不満とした(しかし、その控訴人個人に対する不満が右医師らの退職の理由となっていたものとは認められない)。かくして、同年三月一杯で六名の医師が辞め、同年四月一杯で二名の医師が辞めた(副院長の有賀医師と外科部長の市川医師は病院側の慰留により辞意の強行を差控えて病院に止まった)。その上、院長の岩田医師も五月以後病欠に入ったが、その後病院は非常勤医の補充を得て、昭和三九年七月一日当時診療に従事していた医師は七名になった。

六、前記のように同年六月一日付をもって全社連から病院に派遣されて来た山口院長代理は、同年七月下旬、控訴人に対し、全社連傘下の鶴見診療所(従業員一三名程で、労働組合はない)の所長に転勤を求めた。その理由として控訴人に告げられたところは、当初は鶴見診療所所長の席がかねて空席となっていて、控訴人は経験、経歴等からして診療所長に適当であるからということであったが、控訴人の拒否にも拘らずなお右転勤を要請するうちに告げるところによれば、控訴人が病院にいては他の医師が来ないから転出して貰い度いということも理由とされていた。そして山口院長代理は、同年八月一八日控訴人に対し、翌一九日迄に右転勤要請に対する承諾がないときは退職して貰う旨通告し、その承諾がなかったところから、本件解雇に及んだ。控訴人の経験、経歴等からすれば、一般には右診療所長の如き管理職への転出は適当なところであったが、控訴人は、右転勤要請が組合の組織の破壊を狙うものである等の理由で、これを拒否したのである。そして控訴人は、本件解雇を無効であるとし、その後も診療行為をなそうとして院内に立入ろうとしたが、病院の職制、全社連職員及び前記職員組合員らによって阻止された。また、組合員として組合ニュース配付をなさんとしたことについても同様阻止されたことがあること前記のとおりである。

七  しかし病院側は(イ)昭和三五年五月頃、前事務長の戸山某を通じて、控訴人に対し、退職を勧告し、当時春斗中であった労使対立の責任をとらせようとしたことがあり、(ロ)昭和三七年一二月以降組合との団交の席上、控訴人との間で激しい言葉のやり取りが行われて来ると、控訴人の理論が病院をこんなにしたのだと控訴人を非難したことがあり、(ハ)昭和三九年夏期一時金をめぐる同年七月中旬頃の団交の席で、組合から医師の補充について要求された際、渡辺事務代理において、就業規則を遵守するような組合ならば大学が医師を派遣するというようなことを再三発言したことがあり、(ニ)昭和三九年八月一六、七日頃、控訴人の転勤に反対する患者らとの間で持たれた交渉の席で、渡辺事務長代理において、控訴人は組合活動をして困る、煽動をして困るという趣旨の発言をしたことがあった。

以上のように一応認められ、前掲疎明及びその余の本件疎明中右認定に反するものは採用しない。前記のように本件解雇当時病院側により解雇の言分とされていた控訴人がいては他の医師が来ないということは、前記のように、その当時、非常勤医師とはいえ医師の補充がなされていたこと、及び渡辺事務長代理が就業規則を遵守するような組合なら大学は医師を派遣すると発言していたこと並びに前掲疎明上その後も解雇当時と較べて医師の数に大差がないと認められることにより、遽かにその言分どおり肯認するわけには行かない。≪証拠の認否省略≫

被控訴人は、医局における控訴人の非協力性、非協調性をもって就業規則第三六条第四号所定の「経営上やむを得ない事由」にあたると主張するが、その非協力性、非協調性の具体例として主張されていることは、相当古い時代のことは措き、右榛名病棟問題における控訴人の反対行動のほか、控訴人がここ数年来当直をしなかったことであるにすぎない。右のように控訴人が当直をしなかったことは当事者間に争いがなく、控訴人が当直をしないことについて他の医師が不満を持っていたことは≪証拠省略≫により肯認し得るが、この程度のことは、いまだ右就業規則第三六条第四号の所定事由に当るとすることはできない。そして、前記榛名病棟問題が純然たる診療上の問題とのみ言い切れないことは明らかであるから、組合がこれに対し、経済的目的をもって反対運動をなし、かつその解決策としての前記確認書の実行を要求することは、組合活動上許容されてしかるべきであり、従って、控訴人が医局員多数の意見に対立する見解を持し、かつ組合の決定に従い、反対運動等をしたこと自体は、たとい控訴人が組合幹部として右反対運動等を指導したものであるにしても、医局における非協力性、非協調整のあらわれと称して非難することはできない。尤も、右認定によれば、組合がその反対運動に当り、赤松療友会と共斗体制をとり、前記患者の坐込みについても通謀したことが窺われないでもないが、元来赤松療友会は、患者という独自の立場において自主的に右計画反対を決定し、これに基づいて行動したものであり、患者らの右計画反対の態度は、患者の反対が組合によって煽動されたものとする病院側見解によって一層硬化したのであって、単に組合の煽動によって行動したものではないことが≪証拠省略≫により疎明されているから、仮りに赤松療友会の反対運動が組合と共斗体制をとったことのために、赤松療友会単独でなした場合より強化されたところがあったとしても、前記患者坐込みを頂点とする病院内の混乱及びこれにより他の医局員が診療意欲を喪失し、控訴人に対し著しい不満を抱いたこと並びに≪証拠省略≫により疎明されているように控訴人が「大事の前の小事だ」として、患者らの反対運動を肯認していたことを捉えて控訴人に被控訴人がいうような医局の運営上における致命的な或いは重大な非協力性、非協調性ないし独善性が存すること並びに病院の勤務医としての適格性がないことの徴憑と見ることは困難である。従来控訴人は医局の診療会議や研究会等に常に出席し、その間において他の医局員と不和を生じたことがなく、また誠実に医師としての診療行為に当って来、それ故に患者の信望を得ていたものであり(診療上の改善措置について種々努力し実績を挙げたところもある)、診療面及び個人的な交際面において控訴人の非協調性、非協力性の故に格別問題を生じたことがないことが≪証拠省略≫により疎明されていることによれば、一層右の判断を裏付けるものといわねばならない。のみならずこの点については、前記のように、患者の坐込みは、院長はじめ病院当局者が前記三月六日の大会に出席しなかったこと等の病院側における不手際も原因となっていること及び右坐込みについて組合は看護婦による患者看護に当らせ、患者らは随時交替して不祥事態の避止に努めていたことも亦考慮されるべきである。

右のように、被控訴人が本件解雇の理由として主張するところを客観的に肯認させるような疎明はなく、またその一方において、前記一ないし四及び七等の事実が疎明されているのに徴すれば、本件解雇は、被控訴人すなわち病院側が、右認定のように昭和三七年一二月以降行わんとし、かつ行って来た組合に対する労務対策強化の一環として、組合の中心的存在である控訴人を嫌悪しその故に病院から排除せんとしてなしたものとの疎明が得られるとするのが相当である。従って本件解雇は、被控訴人主張の就業規則第三六条第四号の事由ある場合に当らず、かつ不当労働行為であると一応認められるから、いずれにせよ、控訴人その余の主張について判断するまでもなく、その効力はないものとすべきである。

本件解雇が右のように一応無効であると解される以上、控訴人が被解雇者として取扱われることは、前記のような控訴人の一〇余年に亘る病院における勤務歴及び組合の創設者、中心的存在としての活動歴並びに病院の組合対策とこれに伴う組合勢力の推移状況等に照らし、かつ、≪証拠省略≫により控訴人が病院における復職を希望していること、被解雇者の立場では実効あある組合活動を行うに欠けるところがあることが疎明されているのに徴すれば、控訴人にとり、その損害は著しいものと一応認められるのであって、前記控訴人本人及び証人藤代常夫の供述によれば、本件解雇以来控訴人は、当初は控訴人が組合から受ける月二万円の生活補償金及び同居の妻(本件解雇前から勤務医として働いていた)の医師としての収入により、現在では控訴人が市川市民診療所に週三日半勤務の非常勤医として勤めて得る給料月五万円程と妻が医師として働いて得る給料月七万円程により、一応、控訴人主張のような手伝いの者を雇っての家族五人の生活を維持し得て来ていることが疎明されているけれども、これを考慮に容れても本件の場合について解雇の効力停止の仮処分の必要性を否定することはできない。従って、右解雇の効力停止を求める仮処分申請はこれを許容すべきである。次に、賃金支払を命ずる仮処分申請については、右のように控訴人は病院からの賃金によらずに前記の内容による収入によって一応その生活を維持し得て来ており、控訴人及びその妻の職歴からすれば今后も概ね右の程度の収入はあるものと推測できるのであって、他に相当賃金の支払について被控訴人の任意履行をまつことなく仮処分によりこれを命じなければならない程の緊急性を肯認させるような疎明はなく、保証をもってこれに代えさせることも適当でないから、右仮処分申請はこれを却下するを相当とする。

よって右と異る範囲で原判決は不当であるから、右不当の限度で本件控訴は理由があると認め、原判決を変更して、解雇の効力停止を求める申請を認容し、本件その余の申請を却下すべきものとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九二条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岸上康夫 裁判官 田中永司 裁判官野田宏は職務代行を解かれたため署名捺印することができない。裁判長裁判官 岸上康夫)

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